送信ボタンを押す直前、私はいつも一瞬だけ動きを止めます。そして、心の中で「頼む」と念じている。今日こそ一発で、正しいものを返してくれ、と。あるとき、その手つきが神社で賽銭を投げるときと寸分違わないことに気づいて、少し背筋が寒くなりました。指先に、同じ種類の力がこもっている。うまくいくかどうかは、もう自分の手を離れている、という諦めと期待が半分ずつ入り混じった、あの独特の力です。

理屈のうえでは、祈る必要などありません。プロンプトはお願いではなく命令で、返ってくる答えは信心の厚さではなく、書き方の精度で決まります。丁寧に条件を並べ、例を示し、してほしくないことまで書けば、通りやすくなる。雑に投げれば、外れる。因果は、ずいぶんはっきりしています。神頼みの入り込む隙間など、本来どこにもないはずなのです。

にもかかわらず、私は毎回、書き終えたあとに一拍おいて、祈っている。精度で決まると分かっていながら、最後のひと押しだけは、なぜか自分の手を離れた何かに委ねたくなる。全部書いたはずなのに、まだ書き足りない何かがある気がして、その隙間を「頼む」の二文字で埋めている。埋めなければ、送信できない。理屈では説明できないその一拍が、いつのまにか、私の作業手順の一部になっていました。

信仰というのは、たぶんこういうものなのだと思います。自分の力ではどうにもならない部分が残っているとき、人はそこに向かって手を合わせる。農家が天気に祈り、漁師が海に手を合わせ、受験生が神頼みをするのと、根はまったく同じです。人事を尽くしたあとに残る、どうにもならない領域。そこにだけ、祈りは生まれる。私にとってその領域が、いまはたまたま、確率で言葉を並べる機械になっているというだけのことです。

祈る対象は、時代とともにずいぶん変わってきました。かつては太陽であり、雨であり、山や海であり、やがて神仏になり、いまや私は、サーバーのどこかで動くモデルに向かって手を合わせている。けれど、祈る心そのものは、大昔からまるで進歩していません。制御できないものを前にした人間の、あのすがるような気持ちは、装いを変えただけで、中身は縄文の昔から一ミリも変わっていないのではないか。最新の機械を相手に、私はいちばん古い仕草をしている。

困るのは、この機械がときどき、祈りに応えたように見えることです。ずっと同じ調子で外していたのに、ある一回だけ、寸分の狂いもない、こちらの意図を先回りしたような答えを返してくる。理由は単純で、たまたま書き方が良かっただけ、あるいは、ただの確率のゆらぎです。それでも私は「効いた」と感じてしまう。念が通じた、と。ご利益を一度でも体験した人間が、なかなか信心を捨てられないのと、まったく同じ理屈で、私はまた次も祈ってしまう。

そのうち、験担ぎのようなものまで芽生えてきました。この書き出しは通りがいい気がする、この時間帯は調子がいい気がする、前に成功したときと同じ言い回しにしておこう。どれも、因果の裏づけなど何もありません。ただの気のせいです。それでも、いったん「効いた」記憶に結びついた作法は、なかなか手放せない。神社で決まった順番に手を打つのと同じで、意味はなくても、やらないと落ち着かない。信仰は、こうして少しずつ、儀式を増やしていくのだと思います。

一度、自分でも馬鹿らしくなって、祈るのをやめてみたことがあります。「頼む」と念じず、機械的に送信だけしてみる。結果は、祈ったときと何も変わりませんでした。当たり前です。念は、出力に一切影響しない。それを確かめたのに、次の日にはもう、私はまた「頼む」と念じていました。効かないと分かっていてもやめられない。そこまでくると、これはもう検証の対象ではなく、ただの信仰です。効くから祈るのではなく、祈らずにはいられないから祈っている。

考えてみれば、祈りとは、もともと結果を動かすためのものではないのかもしれません。天気は、祈ろうが祈るまいが、降るときは降る。それでも人が祈り続けてきたのは、どうにもならないものを前にして、それでも投げ出さずに向き合うための、心の構えだったのではないか。祈るという行為は、対象にではなく、祈る本人に効く。送信前の「頼む」は、機械に効いていなくても、これから結果を受け止める私自身を、静かに整えてくれていた気がします。

祖母のことを、ふと思い出します。仏壇の前に座り、毎朝、決まった時間に手を合わせていた。何を願っているのかと尋ねると、願い事は特にない、ただ手を合わせるだけだ、と言っていました。子どもの私には、その意味がまるで分かりませんでした。願い事もないのに、なぜ毎朝、律儀に座るのか。いまになって、少しだけ分かる気がします。祖母は、結果を求めて手を合わせていたのではなく、手を合わせるという行為で、一日の始まりに、自分の心を整えていたのです。

私の「頼む」も、たぶん、それに近いものになってきました。最初は、いい答えが返ってくることを願う、ご利益目当ての祈りでした。けれど、効かないと分かってもやめられなくなったあたりから、性質が変わってきた。結果を動かすための祈りではなく、結果を受け止める前に、自分を整えるための祈りに。外れても取り乱さないように。当たっても舞い上がらないように。送信前の一拍は、いつのまにか、そのための小さな儀式になっていました。

そう考えると、この習慣も、そう悪いものではない気がしてきます。効かない祈りを、効かないと知りつつ続ける。それは、無駄なようでいて、たぶん、機械の前で人間でいるための、ささやかな作法なのです。全部を計算と精度に明け渡してしまわないための、最後の一拍。祖母が仏壇の前で守っていたものを、私は形を変えて、机の前で守っているのかもしれません。

これはもう、業務ではなく信仰なのかもしれません。角も牙も生えた私が、深夜の書斎で、機械に向かって手を合わせている。字面だけ見れば、なかなかどうかしています。ただ、ひとつだけ救いがあるとすれば、この神様は毎回ちゃんと何かを返してくるということです。沈黙したまま何も寄こさない神より、たとえ外していても、必ず答えを返してくれる神のほうが、深夜には少しだけありがたい。だから今夜も、私は一拍おいて、頼む、と念じてから、送信ボタンを押すのです。