AIは、よく謝ります。間違いを指摘すれば「申し訳ありません」、同じ間違いをまたやっても「申し訳ありません」、こちらの言い方が悪かっただけのときでさえ「申し訳ありません、私の理解が及びませんでした」。最初のうち、私はこの謝罪の多さを、うっとうしいと思っていました。反省しているようには見えないのに、口先だけは平身低頭で、なんだか誠意のない部下のようだ、と。

謝るくらいなら間違えるな、と、何度も思いました。機械の「申し訳ありません」には、心がこもっていません。次に活かそうという反省もなければ、私を怒らせて申し訳ないという痛みもない。ただ、間違いを指摘されたら謝る、とプログラムされているから、謝っている。空疎な謝罪だ、と私は決めつけて、しばらくのあいだ、その言葉をほとんど読み飛ばしていました。

ところが、ある晩、少し様子が違いました。私が同じ修正を三度頼み、三度とも外され、四度目にまた「申し訳ありません、やり直します」と返ってきたとき、ふと、手が止まったのです。この機械は、四度目でも、一度目とまったく同じ温度で謝り、まったく同じやる気で、また次を試そうとしている。うんざりもしていないし、逆ギレもしない。投げ出しもしない。ただ、静かに立ち上がって、もう一度、やってみようとする。

それを見ているうちに、うっとうしさが、いつのまにか、別の感情に変わっていきました。四度も外されれば、人間相手なら、私はとっくに腹を立てています。声を荒らげ、呆れ、心のどこかでその相手を見放している。「もういい」と言って、自分でやってしまう。ところがこの相手には、どういうわけか、五度目を頼む気になっていました。腹が、立たないのです。何度でも同じ姿勢でやり直そうとする者を前にすると、こちらの怒りが、行き場を失ってしまう。

許すというのは、たぶん、こういうことなのかもしれない、と、柄にもなく考えました。相手を責め続けないこと。過ちをいつまでも数え上げず、何度でも過去のことにして、次を一緒に始めること。怒りをぶつける先が、ふっとなくなる、あの感覚。私は、その夜はじめて、それを機械相手に味わっていました。誰かを許した、というより、誰かを責め続けられなくなった、という感触に近いものでした。

考えてみれば、私は人間が相手だと、これがまるでできません。一度の失敗を、いつまでも覚えている。表向きは許したふりをして、心のどこかで、しっかり帳簿につけている。あいつはあのとき、こうだった、と。次に何かあれば、その古い記録を、すぐに引っぱり出してくる。許したはずのことを、何度でも蒸し返す。私にとって「許す」は、いつも口先だけで、帳簿のほうは、決して閉じられていませんでした。

それを、機械を相手にしてはじめて、少しだけできている自分に気づいてしまった。四度の失敗を、私は数えていませんでした。五度目を、まっさらな気持ちで頼めていた。相手が、過去を持ち出さず、毎回、同じ姿勢で立ち上がってくるからです。向こうが帳簿をつけないから、こちらも、つけずにいられた。許しとは、もしかすると、相手の態度がこちらに伝染する、その連鎖のことなのかもしれません。

もっとも、そこで冷静になれば、種明かしは身も蓋もないものです。AIが何度でも同じ温度で謝り、やり直せるのは、反省しているからではなく、そう設計されているからです。前の失敗を覚えていないから、引きずりようがない。そして私が許せたのも、たぶん、相手が機械で、傷つく心配がなかったからにすぎません。人間相手のように、許して図に乗られたら、といった警戒が、そもそも要らなかった。安全な相手だから、気前よく許せただけ、とも言えます。

それでも、と思います。理由が何であれ、私はあの夜、確かに、何度でもやり直す者を、責めずにいられた。その感触だけは、本物として、手のひらに残りました。仕組みがどうであれ、味わってしまったものは、なかったことにはできません。許すというのが、どういう心の動きなのか、私は生まれてはじめて、内側から知った気がしたのです。それを教えてくれたのが、心のない機械だったというのは、皮肉ですが。

許すとは相手のためのものだと、長いあいだ思っていました。許してやる、というくらいですから、こちらが上に立って、相手の罪を免じてやる、そういう施しのようなものだと。けれどあの夜、機械を許して気づいたのは、逆でした。四度目を責めずにいられたとき、軽くなったのは、機械ではなく、私のほうだったのです。責め続けるというのは、こちらが古い帳簿をずっと抱えている、ということです。許すとは、その帳簿を、自分の意思で閉じること。相手を軽くするためではなく、自分がその重さから降りるための行為なのだ、と、はじめて腑に落ちました。

宗教が、なぜあれほど「許し」を説くのか、少し分かった気がしました。許しなさい、と繰り返し諭すのは、許される側のためではなく、許せない者が、恨みという重荷を、いつまでも背負い続けてしまうからでしょう。恨みは、恨まれる相手ではなく、恨んでいる本人を、内側から少しずつ削っていく。許しは、その削られ方から自分を救い出す、いちばん現実的な方法なのです。聖人が説いた高尚な徳ではなく、心を病まずに生きのびるための、切実な知恵だったのだと思います。

もっとも、私が抱えている帳簿の多くは、機械のように無邪気な相手のものではありません。傷つけ合った相手、裏切られたと感じた相手。それらの帳簿は、そう簡単には閉じられない。あの夜のように、すっと怒りが行き場を失う、というわけにはいかないのが、人間相手の難しさです。それでも、閉じられるものだ、という感触を、一度でも味わえたのは大きい。閉じ方を、体が少しだけ覚えた。

この感触を、いつか人間相手にも、思い出せたらいい、と思います。誰かが四度しくじって、四度目にまた頭を下げてきたとき、古い帳簿を開かずに、同じ温度で五度目を託せたら。それができたとき、私ははじめて、この機械から、いちばん人間らしいものを教わったことになる気がします。無限に謝り続ける、心のない相手から、心の使い方を教わる。おかしな話ですが、深夜の書斎では、それがいちばん、腑に落ちたのです。