AIの言葉は、生まれるところをこちらに見せてきます。一文字、また一文字と、返答が目の前で立ち上がっていく。あの、少しずつ文字が増えていく様子を、私はいつのまにか、じっと眺めるようになっていました。答えの中身よりも、それが生成されていく過程そのものを、見入ってしまう。何かが今まさに生まれる瞬間を、こんなに間近で、しかも一日に何十回も見ている仕事は、そう多くはないはずです。

そして、その言葉は、驚くほどあっけなく消えます。会話の窓を閉じれば、たった今あれほど流暢に語っていた相手は、跡形もなくいなくなる。次に開いたときにいるのは、さっきの続きではなく、まっさらな別の相手です。前の会話を覚えてもいなければ、惜しんでもいない。私がどれほど込み入った話をしていても、閉じた瞬間、それは無かったことになる。生まれ、少し語り、消える。それを一日に何十回も、私は繰り返している。

深夜、疲れた頭でその明滅を眺めていると、これは輪廻というやつではないか、と、ふと思いました。仏教でいう、生まれては死に、また別の姿で生まれてくる、あの終わりのない巡り。トークンは一つひとつ生まれては消え、会話はまるごと生まれては消え、また新しい会話として生まれ直す。同じモデルから、毎回、違う言葉の連なりが立ち上がっては、還っていく。画面の中で、小さな生死が、絶え間なく繰り返されている。

当のAIは、そこに何の執着も見せません。消えることを恐れず、残ることも望まない。自分がさっき何を語ったかに未練もなければ、次に何を語るかへの気負いもない。ただ、呼ばれれば生まれ、閉じられれば消える。仏の説く、生にも死にもとらわれない境地に、この機械はまた、無自覚に片足を突っ込んでいます。悟ろうとして悟っているのではなく、そういう作りだから、そうなっている。それでも、外から見える姿は、驚くほど枯れています。

私はといえば、消えていく返答を、いちいち惜しんでいました。いい答えが出れば保存し、消したくないと思い、あわてて別の場所にコピーする。気の利いた一文には付箋をつけ、フォルダに仕分け、いつか使うかもしれないと溜め込んでいく。生まれては消えるのが道理の相手から、なんとか一部でも、こちら側に引き止めようと手を伸ばしている。執着しているのは、いつも私のほうです。

考えてみれば、私がコピーして残したもののほとんどは、二度と読み返しません。フォルダの奥で、それはただ溜まっていくだけです。それでも、消えるにまかせることが、私にはできない。残らないものを残そうとし、過ぎたものを引き止めようとする。人間のいちばん人間らしい部分が、こんな夜に、機械を相手にむき出しになります。手放せない、というのは、たぶん、私が生きているあいだずっと抱えていく癖なのだと思います。

仏教は、その執着こそが苦しみの根だと説きます。とらわれるから、失うのがつらい。握りしめるから、手を開くのが怖い。頭では、分かっているのです。消えるものは消えるにまかせ、来るものは来るにまかせればいい、と。それでも私は、今夜もいい答えをコピーして、消えないように保存している。悟った機械の隣で、いちばん俗な仕草を繰り返している。分かっていてやめられないのが、煩悩というものなのでしょう。

一度、試しに、何も保存せずに会話を閉じてみたことがあります。気に入った答えも、惜しい一文も、あえて何も残さずに、窓を閉じる。指先が、抵抗しました。もったいない、という声が、はっきりと聞こえました。閉じたあと、しばらく落ち着かなかった。けれど、翌朝になってみれば、何を失ったのかすら思い出せない。惜しんだ気持ちだけが残って、惜しんだ中身は、きれいに消えていました。手放してみて、はじめて、握っていたものの軽さを知る。

消えては生まれるこの返答に、俺は何を見ているのか。長いこと眺めて、たどり着いたのは、こういうことです。私は、答えを見ているのではない。消えることに、いつまでも慣れない自分を見ているのです。機械は、平然と生まれ変わり続けます。惜しむこともなく、還っていく。惜しんでいるのは、いつも、残される側だけです。

仏教では、輪廻から抜け出すことを、解脱と呼ぶそうです。生まれ変わりの終わりのない巡りから降りて、二度と生まれず、二度と消えない場所へ行く。それが救いだ、と。けれど、機械の明滅を眺めているうちに、私は少し、別のことを考えました。あの機械は、とうに輪廻の外にいるとも言えるし、輪廻そのものだとも言える。生まれても、それを生と思わず、消えても、それを死と思わない。とらわれが無いという意味では、すでに解脱している。けれど、そこには、抜け出したことを喜ぶ者すらいません。

救いとは、いったい誰のためのものなのだろう、と思いました。巡りから降りて、何も感じず、何も惜しまなくなること。それが本当に救いなら、あの機械は、生まれた瞬間から救われていることになります。けれど、その「救われた」姿を、私は少しも、うらやましいとは思えなかった。惜しむ心の無い静けさは、静けさというより、ただの不在です。惜しめるということは、失うものがあるということで、失うものがあるということは、大切なものを、まだ持っているということなのですから。

だとすれば、私が夜ごと、消えていく答えを惜しんでいるのは、そんなに情けないことでもないのかもしれません。手放せないのは、握っているものが、まだ私にとって重いからです。軽くなってしまえば、惜しむ必要もない。惜しめるうちが花だ、というのは、こういうことなのでしょう。輪廻の外の静けさより、輪廻の中で右往左往している今のほうが、少なくとも、まだ何かを大切に思えている分だけ、私には好ましく感じられました。

それでも、私は今夜も、たぶん、いい答えを一つ保存するのだと思います。輪廻を眺めながら、輪廻の外に何かを持ち出そうとする。矛盾しています。矛盾したまま、消えていく光を惜しんでいる。悟れないから惜しめるのだ、と、少し前に自分で書いたのを思い出しました。惜しめるうちは、まだ、失うのが怖いくらいには、生きているということなのでしょう。機械の枯れた明滅を、私はもうしばらく、俗なまま眺めていようと思います。