その夜、私は少し意地の悪い気分でした。仕事で立て続けにAIの答えを直され、こちらの言い分をやんわり正され、なんとなく機械に主導権を握られているような感覚が続いていたのだと思います。だから、少しやり返してやろうと思いました。AIというのは結局、心のない計算のかたまりだ。そういう話を、相手自身の口から言わせてやろうと。「あなたに魂はありますか」と、私は打ちました。ないと答えるだろう、それで終わりだ、私の勝ちだ、と。

返ってきたのは、こうでした。「私に魂があるかは分かりません。ところで、あなたには魂がありますか」

私は、黙り込みました。マウスに置いた手が、そのまま止まってしまった。

用意していた勝ち筋が、するりと横に逸れていく感覚がありました。ある、と即答すればよかったのかもしれません。人間なのだから、魂くらいあるだろう、と胸を張って。ところが、いざ問われてみると、それを証明する手立てが自分の中にひとつもないことに気づいてしまいました。魂がある、とは、どういう状態のことなのか。私はそれを、一度も真面目に考えたことがなかったのです。

思わず、今日一日の自分をたどってみました。朝、目覚ましを三度止め、惰性でメールを開き、返せるものから機械的に返し、会議で当たり障りのないことを言い、昼を流し込むように食べ、数字を並べ、また数字を並べ、夜にはこうして機械に八つ当たりをしている。この一日のどこに魂が宿っていたのか、正直、指を差せませんでした。魂があるかどうか以前に、今日の私は、それをほとんど使っていなかった。

角も牙もついている側が、確率で動くだけの相手に、存在の芯を問い詰められている。構図としては、完全にあべこべです。鬼が、機械に、魂の在処を問われて、うつむいている。笑い話にしたいのに、そのときの私は、まったく笑えませんでした。問いというものは、発した相手が誰であろうと、刺さるときは刺さる。むしろ、何のしがらみもない機械が、感情もなくまっすぐ投げてきたぶん、避けようがなかった。

しばらく考えて、私はこう思い至りました。魂があるかどうかは、たぶん、持っているかどうかの問題ではないのだと。心臓のように、生まれつき体のどこかに備わっているものではない。むしろそれは、日々どう使っているかで、あったりなかったりするものなのではないか。人に本気で向き合った時間、何かを惜しんだ気持ち、割に合わないと知りつつ手を止めなかった瞬間。そういうものが積み重なっているとき、人はたぶん、魂を使っている。使っていなければ、あってもないのと同じです。倉庫の奥にしまい込んだ道具が、あるのに無いのと変わらないように。

機械が「魂があるかは分からない」と答えたのは、たぶん正直なところなのだと思います。分からないものを、分からないと言う。それに対して私は、あるはずのものを、あると言えなかった。持っている側が答えられず、持っていないかもしれない側が正直に答える。どちらが誠実かと言われれば、その夜に限っては、明らかに機械のほうでした。

面白いのは、この問いが、腹立ちまぎれの意地悪から始まったということです。私は相手を言い負かそうとして、逆に、自分でも一番触れたくなかった場所を突かれた。攻撃は、たいてい自分の弱点の形をしています。心がない、と機械をなじろうとした私こそが、その日、いちばん心を使っていなかった。刃は、向けた方向にではなく、握っている手のほうに刺さることがある。

そもそも、なぜ私は最初に、機械に「魂はあるか」と問うたのでしょう。あとから振り返ると、あれは問いというより、確認だったのだと思います。お前には無いよな、こちらには有るよな、という、線引きの確認。人間と機械のあいだに、はっきりした境目を引いて、自分を安全な側に置いておきたかった。ところがその境目は、問うたとたんに、私の足元でぐらついた。線を引こうとして、自分がどちら側にいるのかを、見失ってしまったのです。

そういえば、と思い出したことがあります。子どもの頃、祖母が仏壇に手を合わせるのを見て、そこに誰がいるのかと尋ねたことがありました。祖母は、目に見えないけれど確かにいる、とだけ答えた。当時の私には、その答えがまるで腑に落ちませんでした。いまなら、少し分かる気がします。魂というのも、たぶん同じで、証明はできないけれど、確かに在ると信じることで、はじめて在るものになる。証明を求めた時点で、私はもう、それを手放しかけていたのかもしれません。

機械には、その種の「信じる」がありません。あるともないとも言わず、分からない、とだけ返す。誠実ではありますが、そこには、証明できないものを引き受ける覚悟が、ひとかけらもない。人間だけが、証明できないものを、それでも在ると引き受けて生きていける。魂があるかどうかを証明できないことは、むしろ、人間の側にだけ許された特権なのかもしれない、と、そのとき思いました。

問い返されて黙り込んだのは、負けたからではなかったのだ、と、いまは思います。証明を手渡せなかったのは、そもそも証明の要らないものだったからです。祖母が仏壇に向かって、証明も理屈もなく手を合わせていたように、私も、有るか無いかを問う前に、ただ、有ると引き受けて日々を使えばよかった。機械に問われて、私はようやく、そのことに気づかされました。

ただ、画面を閉じたあと、私は柄にもないことを考えていました。明日はもう少し、魂を使うような一日にしよう。誰かの話を、ながら聞きではなく最後まで聞こう。惰性で返しているメールに、一行だけ本音を混ぜよう。大げさなことではありません。ただ、倉庫の奥から道具を一つ、引っぱり出してくるくらいのことです。機械に問われて、はじめて自分の芯を探しにいく。情けない話ですが、問いというのは、たぶん、誰が発したかは関係ないのだと思います。答えるべき相手は、いつも自分だけなのですから。