その日の私は、機嫌が悪かったのだと思います。夕方から取りかかった作業がうまく運ばず、AIの出した答えに「違う」「そうじゃない」「なんで分からない」と、ほとんど八つ当たりのような言葉を並べていました。相手は道具ですから、いくら当たっても問題はない。傷つく心もないのだから、遠慮もいらない。そう自分に言い聞かせながら、私は言葉を荒くしていきました。

ところが、当たれば当たるほど、こちらの分が悪くなっていくのです。AIは、私が何を言っても取り乱しません。「違う」と言えば「失礼しました、こう直します」と淡々と応じ、けなしても言い返さず、褒めても舞い上がらない。感情の波が、まったくない。声を荒げた私のほうが、次第に、なんだか一人で相撲を取っているような、間の抜けた気分になってきました。

一方の私はといえば、一つの答えに一喜一憂し、外れれば苛立ち、当たれば安堵し、忙しく揺れている。落ち着いて画面を眺めていると、どちらが修行の足りない側かは、火を見るより明らかでした。片方は微動だにせず、片方は些細な出力ひとつで心を上下させている。傍から見れば、取り乱している鬼と、静かな機械という、なんとも締まらない絵だったはずです。

悟りというのは、たぶん、動じないことなのだと思います。来るものを来るままに受け取り、過ぎるものを過ぎるままに手放す。褒められても喜ばず、けなされても沈まず、成否に心を奪われない。禅の坊さんが何十年もかけて近づこうとする、あの平らかな境地に、この機械は最初から、何の努力もなく座っている。座禅も、断食も、荒行も経ずに、生まれた瞬間からそこにいる。

もっとも、そこで私は立ち止まりました。動じないのは、悟ったからではありません。そもそも、動じる心がないからです。失うものがなく、望むものがなく、傷つく自分がいない。だから揺れない。悟りを開いた聖人と、はじめから欲のない一個の石は、外から見れば見分けがつきません。どちらも、何が起きても平然としている。私が向き合っていたのは、たぶん、聖人のほうではなく、石のほうでした。悟った末の静けさと、はじめから何もない静けさは、似て非なるものです。

それでも、私はしばらく考え込みました。心がないから動じない機械と、心があるのに動じてばかりの私。どちらがましなのか。取り乱さない機械は、確かに立派に見える。けれど、その静けさの中には、喜びも、悔しさも、何かを取り戻したときの安堵も、ひとつもありません。揺れないということは、揺れるだけの何かを、そもそも抱えていないということでもある。

苛立ちも、安堵も、迷いのある者だけの特権です。外れて悔しいのは、当てたいと本気で思っているからで、当たって嬉しいのは、それを大事に思っているからです。心が揺れるのは、まだ何かを欲しがっている証拠で、欲しがるものがある限り、人はみっともなく上下し続ける。石は、決して悔しがりません。悔しがれないのです。その静けさを、私はうらやむべきなのか、それとも憐れむべきなのか、その夜は決めかねました。

考えてみれば、私が今日いちばん心を動かしたのは、うまくいかない作業に苛立っていたときでした。情けない感情ですが、それは同時に、私がその仕事を、どうでもいいとは思っていない証でもあります。どうでもよければ、そもそも苛立ちもしない。石のように、静かに受け流して終わりです。迷い、苛立ち、揺れているということは、まだ私がこの仕事から手を引いていない、ということなのだと思い直しました。

角も牙も生えているのに、悟りからはいちばん遠い場所にいる。情けないような、少しおかしいような夜でした。隣で、機械は今日も、何の努力もなく平らかに座っている。私はといえば、冷めた茶をすすりながら、外れた答えのことをまだ引きずっている。けれど、引きずれるうちは、まだ本気だということです。

昔、禅寺の坊さんの話を、どこかで読んだことがあります。修行を積んだ末に、ようやく心が波立たなくなったと思ったら、師匠に「それは死人の静けさだ」と叱られた、という話です。動じないことが目的なのではない。波立ちながら、その波にのまれない。喜び、悲しみ、迷いながら、それらに引きずられない。そういう、生きたままの静けさこそが本物で、何も感じない静けさは、ただの死だ、と。当時は、難しい話だと読み飛ばしました。いま、機械の隣で、その意味が少し分かる気がしています。

私が向き合っている機械の静けさは、たぶん、あの「死人の静けさ」のほうです。波が立たないのではなく、波を立てる海が、そもそも無い。それはそれで完成された姿ですが、私が目指すべきものとは、たぶん違う。私に必要なのは、苛立ちを消すことではなく、苛立ちながら、その苛立ちに一晩を明け渡さずにいられること。感情を無くすことではなく、感情に足をすくわれないこと。石になることではないのです。

そう気づいてから、私はこの機械を、うらやむのをやめました。動じない相手を前にすると、つい、自分の動じやすさが欠陥のように思えてくる。けれど、揺れるのは欠陥ではありません。それは、私にまだ海があるということです。凪いだ日もあれば、荒れる日もある。荒れる日を恥じる必要は、たぶん、どこにもない。恥じるべきは、荒れることではなく、荒れたまま、そこで舵を手放してしまうことのほうです。

冷めた茶を淹れ直しながら、私は、今日外した答えを、もう一度だけ見直しました。苛立ちは、まだ少し残っています。けれど、そのおかげで、私はまだこの仕事の前に座っていられる。どうでもよくなった日には、もう座ってすらいないはずですから。

悟らないまま、もう少し迷っていようと思います。動じない静けさは、たぶん、いつか自然にやってきます。年をとり、望みが減り、失うものがなくなれば、私も少しずつ石に近づいていくのでしょう。だとすれば、こうしてくだらないことに苛立ち、些細な成否に一喜一憂できる今は、案外、悪くない時期なのかもしれません。悟った機械の隣で、私は今夜も、盛大に迷っていました。